ごあいさつ

琵琶と鶴田流

振り返れば二十数年前。

私が初めて琵琶の音色に出逢った時の感動をそのまま言葉で表現すると、それは“無常と永遠を巡る音の響き”とでも言いえましょうか・・。

当時、私は多くの学生と同様に邦楽などなんの興味もなく、もっぱらジャズやロックに傾倒する日々を送っておりました。

しかし或る時、小林正樹監督の映画「怪談」のレコードをたまたま聴いたのです。

その中に、鶴田錦史先生弾じる『壇ノ浦』が入っていました。

初めて耳にした、琵琶の奏でる胸が痛くなるような鋭く乾いた旋律・・・・。

たったひとつの音で人の人生の数十年のすべてを一瞬にして蘇らせてしまう劇的な力を持った琵琶という楽器に、私は強い衝撃を受けてしまったのです。

以来、その時の“まぼろしの音色“をはからずも追い続ける道すがらとなりました。

時代や空間を超越した琵琶の魅力。それは、なかなか一言ではお伝えしにくいものです。

しかし、私の演奏の中に僅かにでも、そんな言い尽くせぬ「何か」を感じていただけましたら望外の喜びです。

岩佐 鶴丈

 

 

薩摩琵琶の特徴

薩摩琵琶の流派には、薩摩琵琶正派・錦心流・錦琵琶・鶴田流があります。

楽器の形は四弦四柱、四弦五柱、五弦五柱があります。

鶴田流は、戦後錦心流より派生した鶴田錦史により開かれました。

鶴田錦史は五弦五柱の楽器をさらに改良し、奏法においても芸術性を高め、現代邦楽、現代日本音楽に貢献しています。

元来「語り物」として伝承されてきた弾き語り音楽で、題材は平家物語りにも代表されるように、戦死者の鎮魂の意もあり、

武士の気質に合わせた勇壮闊達な芸風が信条とされています。

軍記物のほかに歴史上の人物・伝説・民話・お伽噺など多岐にわたっています。

特に現代では、武満徹が鶴田錦史と組んで『エクリプス』『ノベンバー・ステップス』の演奏で世界中に琵琶の音の素晴らしさを広めました。

現在はジャンルを問わない演奏が展開されています。

 

 

琵琶の種類・歴史

⑴樂琵琶

雅楽琵琶ともいわれ雅楽とともに大陸より伝えられた。四弦四柱、本体は紫檀、紫藤、花梨、桑などが用いられる。撥は黄楊製で長さは20cmくらい。奏者は胡座をかき、楽器はほぼ水平にかまえる。  

⑵平家琵琶

平曲(平家物語を語るとき)に用いられる。現行のものは、形、材質とも雅楽の琵琶に近い。四弦五柱、撥は雅楽のものと異なり、両端がとがっている。後の三味線の撥のモデルになったと考えられている。演奏の際は胡座し、楽器は水平に近いがやや首を上げて構える。

⑶盲僧琵琶

琵琶の伴奏にあわせて『地神経』などを読誦する。四弦四柱、撥は薩摩琵琶によく似ている。奏者は正座し、水平から45度くらいの角度に構えて奏する。

⑷薩摩琵琶、錦琵琶

正派、錦心流はともに四弦四柱。薩摩琵琶から出た錦琵琶は筑前琵琶の要素を取り入れ、第三の琵琶樂(金田一春彦)との評さえある。 五弦五柱。材質は桑が用いられる。撥は黄楊製で、開きがとくに大きく両端は鋭角をなしている。奏者は正座し、楽器を立てて構える。

鶴派琵琶は曲折した柱、撥での伴奏など楽器の改良と共に斬新なものとなっている。

⑸筑前琵琶

形は比較的すらりとして全長も三尺にみたない。四弦と五弦のものがあり、演目により使い分ける。本体は桐材を用いる。奏者は正座し、楽器は水平より45度以上の大きな角度で構え、五弦のものは垂直に近く構える。撥も四弦と五弦とは形状が異なる。

 

 

琵琶と平家物語

2013年「中央区文化・国際交流振興協会だより」に掲載の、文化講座「平家物語」より。

琵琶の種類と平家物語についてさらに詳しく記載しています。

中央区文化国際交流振興協会だより表紙.jpg

 

平家物語はもともと琵琶という楽器を伴奏として語る、語り物音楽の詞章でもありました。そして、琵琶を弾き、語る首目の琵琶法師達によって、 平家物語は字の読めない一般大衆にも広く浸透していきました。その琵琶法師達の語る平家物語を「平家琵琶」 あるいは 「平曲」と呼んでいますが、平家琵琶が出来る以前にも琵琶法師は存在していました。平安時代には、いわゆる吟遊詩人のように、琵琶を弾き、長編の叙事詩を歌い諸国を巡っていました。それでは、琵琶という楽器はいつ頃からあったのか、どのような種類の琵琶があるのか、歴史を追って触れてみたいと思います。

 

日本に入ってきた二種類の琵琶

琵琶という楽器は日本固有の楽器だと思っている方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではありません。 およそ千三百年ほど前に、中国大陸から伝来した外来の楽器です。また、種類も一種類ではなく、別のルートで二種類の琵琶が入って来たと考えられています。 その一つは雅楽で使われる「楽琵琶」、もう一つは 「盲僧琵琶」で、これは後の 「平家琵琶」、「薩摩琵琶」、「筑前琵琶」 のルーツとなる琵琶です。

 

楽琵琶

楽琵琶は今からおよそ千三百年前、奈良時代に雅楽の演奏楽器として中国大陸から日本に入って来ました。そのルーツをたどると、古代ペルシャ(イラン)のバルバットといわれています。それがアラブのウードになり、シルクロードを経て中国に伝わり、琵琶 (ピパ) という楽器になります。 そして日本に伝わったのです。そのバルバット、ウードが西へ伝わるとリュードやギターという楽器になります。 日本の琵琶もギターも、ルーツは同じだということになります。シルクロードの東の終着点である正倉院の宝物には数面の楽琵琶が残されていますが、その形は現在雅楽で使われている琵琶とまったく同じ形をしています。 日本では千年以上形を変えずに使われてきていますが、中国では、改良に改良を重ね、たとえば柱(フレット)の数は四柱から三十六柱に、弦は細の弦からスチール弦に変わっています。そしてバチは使用せず、指でフラメンコギターの様に弾く奏法になっています。日本と中国との国民性の違いでしょうか?

 

さて、雅楽は貴族社会、すなわち支配者階級の人々を中心に行われていた音楽ですが、それゆえ楽琵琶に関する資料は数多く残されています。 中でも、承和五年(八三九年)に遣唐使として入唐した藤原貞敏が、かの国の琵琶の名手、廉承武に琵琶の三秘曲 「流水」 「啄木」「楊真操」を伝授され、また琵琶の名器「玄象」 「青山」を贈られて帰国したという話は有名で、その貞敏の伝えた秘曲と名器は、その後さまざまな悲喜こもごもの伝説や逸話を生み出しました。

 

平家物語の中にも、楽琵琶の名手として平経正の記述があります。経正は音楽の才能を買われ、覚性法親王より貞敏が唐より持ち帰った名器「青山」を賜ります。しかし、都落ちの際には仁和寺に覚性法親王の弟、守覚法親王を訪ね 「青山」 を返上するという件があります。また、戦勝祈願のため、琵琶湖の竹生島に詣で、神前に琵琶の秘曲「石上流石」を弾ずると、竹生島明神が、袖の上を白竜となって現われたという記述もありますが、その様な情景を、平家物語を語った琵琶法師達はどの様に表現したのか、同じ琵琶弾きとしてはとても気になる所でもあります。

 

さて、楽琵琶は平安時代には独奏楽器としても盛んに演奏されていました(平安時代に書かれた琵琶譜が残されています) 。が、現在は独奏曲は伝承が途絶えてしまい、まったく演奏されなくなってしまいました。 楽琵琶の演奏は、雅楽の管弦合奏の中で拍の頭にバラランとアルペジオを弾く程度の地味な存在となってしまいましたが、音色はとても魅力的で、まさに悠久の響きを今に聞かせてくれています。

 

盲僧琵琶

盲僧とは盲目の僧侶という意味です。 楽琵琶とは違ったもう一つのルートとして中央アジアを経て、唐の時代の初期に、中国南部から僧らによって九州に渡ってきたとされています。後に「盲僧琵琶」として、九州各地に広まっていきます。盲僧琵琶は楽琵琶とは違い民間に広まった琵琶ですので、残された資料は多くありません。したがって、日本に入って来た時代も楽琵琶ほど正確ではないようです。 民間に広まったといいましても、現在のように一般人が趣味として演奏するという事は考えられず、あくまで盲僧達の専門の職業として存在していました。盲僧琵琶は、はじめは琵琶を弾きながらお経を唱えるという宗教的要素が強いものでしたが、だんだんストーリー性のある詞に節を付けて演奏するようになっていきます。それこそが、語り物音楽である琵琶のルーツであり、他の声の文化のルーツといっても過言ではないと思います。

 

平家琵琶

徒然草では、信濃前司行長が平家物語を作って琵琶法師の生仏に語らせたとあります。 音楽的には、盲僧琵琶の他に、仏教の声明、そして雅楽からの影響があると考えられます。楽器はそれまでの盲僧琵琶は使用されず、楽琵琶を一回りぐらい小さくしたような楽器を使用しています。 鎌倉時代には、琵琶法師の中に平家物語を専門に演奏する人が現れ、室町時代には大流行します。

 

薩摩琵琶 筑前琵琶

現在演奏され、開く事の出来る琵琶のほとんどは薩摩琵琶と筑前琵琶といっていいでしょう。薩摩琵琶は室町末期に、それまであった薩摩盲僧琵琶を改良して、薩摩藩主の島津忠良が、武家の子弟の教育のために道徳的な内容の琵琶歌を作りました。以来薩摩では薩摩琵琶が愛好され、次第に勇壮な内容を持つ語りに発展しました。楽器は四弦四柱で、近年は改良された五弦五柱の琵琶も使われています。(私は、この五弦五柱の琵琶を使っている鶴田流に属しています)筑前琵琶は明治中期に、それまであった筑前盲僧琵琶を改良し、薩摩琵琶や三味線などの手法を取り入れ、新たな琵琶楽を作りました。

近年は、弾き語りの演奏から、楽器だけの演奏も試みられるようになりました。作曲家の武満徹は「ノヴェンバーステップス」という曲で、オーケストラと琵琶と尺八を大胆な形で融合させています。その曲は世界各地で演奏され好評を博しています。

最後に、文化講座のテーマである平家物語は平家琵琶の台本という側面もありますが、薩摩琵琶や筑前琵、そして語りや芝居などの重要な題材でもあります。日本人の心の中にある 「哀れ」 や「無常感」 を呼び起こす一大叙事詩平家物語はいつも琵琶の音色とともにありました

 

 

 

鶴田流・鶴田錦史について

鶴田流は、戦後錦心流より派生した流派です。鶴田錦史によって開かれました。

鶴田錦史は五弦五柱の楽器をさらに改良し、奏法においても芸術性を高め、現代邦楽、日本音楽に貢献しています。

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琵琶の探求者 鶴田錦史の功績

鶴田錦史は明治44年1911年の生まれ。 薩摩琵琶の流れをくむ鶴田流の創始者である。

武満徹作曲 「ノヴェンバーステップス」ニューヨーク公演の成功により一躍有名となり、その後世界各国での200回以上の公演を重ねた。

 

鶴田錦史の琵琶人生

鶴田錦史が琵琶を始めた大正時代、琵琶は娯楽として、今のポビュラーミュージックのように人気があり、プロの演奏家や趣味で習う人も大勢いました。その中、7歳で薩摩琵琶錦心流の琵琶を習い始めた鶴田錦史は、驚くほどの上達の速さで、早くも12歳で弟子を取り演奏活動も開始しました。10歳代半ばには天才児として注目され、演奏会、放送、録音にと引っ張りだこで、家族を養うまでになっていました。

しかし20歳代後半になると、琵琶人気にも陰りが見え、また琵琶界への不満もあり、琵琶の活動を止め、生活のために飲食店などを経営する実業家に転身します。事業は拡大され、一時期長者番付に載る程にもなりました。その間、琵琶の活動は1年または2年に1回演奏会に出演程度でしたが、その度、琵琶の弾法や唄い方の工夫、そして新しい曲を作ったりと、琵琶の可能性を模索していました。

 

武満徹との出会い

40歳代後半になると琵琶の活動を徐々に再開させ、それまで温めていたアイデアを発表していきます。

昭和38年に発表された 「春の宴」 では、琵琶の弾き語りに、バイオリン、チェロ、クラリネット、ホルン、ハープなどの西洋楽器を伴奏につけた大胆な構成で聴衆を驚かせました。これを聴いていた人々の中に、邦楽研究家の吉川英治がいました。彼はこの曲以外にも鶴田錦史の演奏を聴いていて感銘を受けていました。そして、映画 「怪談」 の音楽を担当することになった作曲家の武満徹から、琵琶奏者を紹介するよう頼まれ、新しい琵琶の可能性を追求する鶴田錦史を推薦したのです。

こうして武満徹と出会った鶴田錦史は、「耳なし芳一」の話の中で、琵琶法師の芳一が平家の亡霊に乞われ、「壇の浦」のくだりを歌う場面の歌と弾法の作曲を任されます。現代作曲家の武満徹に任され新しい試みする事が好きだった鶴田錦史は、この時とても張り切ったといいます。そして、作曲するにあたって、調弦、奏法、歌に工夫を凝らし、また楽器の改良も行いました。

 

特殊奏法の考案

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叩き撥=撥の広い部分を、激しく琵琶の胴、または弦と胴に同時に叩き付ける奏法。

スリ撥=撥を弦にこすりつけるようにして、すばやく左右に動かし、シュルシュルという風のような音を出す。また弦を下から上へ、あるいはその逆で上から下へ擦り、ギーというような音を出す奏法。

これらの特殊奏法は、後の「ノヴェンバーステップス」でも効果的に使われています。歌の節にも工夫が加えられ、自身はそれまで女性の音域(写真では男性に見えますが女性です)の高い声で歌っていましたが、男性である芳一の声に合うように、男性の音域の低い声で歌うようにしました。これ以降低い声で歌うようになります。このようにして作曲した 「壇の浦」は、武満徹から高い評価を得て、これを機にそれまでの事業を清算して、琵琶の道へ戻ります。

武満徹との仕事はその後も続きますが、鶴田錦史を一躍世界的に有名にしたのが 「ノヴェンバー·ステップス」です。この曲は、琵琶と尺八という、和楽器とオーケストラとを組み合わせた協奏曲で、1967年、ニューヨークでの初演は大反響を呼び、その後世界各国での公演を重ねることで弦楽器としての琵琶の可能性が、世界から注目されるようになります。

その後はフランスその他海外で古典曲の演奏や録音を行っていましたが、その古典演奏が評価され、1985年フランス政府より芸術文化勲章コマンドールを授与されました。

 

鶴田錦史先生のお稽古

琵琶には、流派によってそれぞれ違った楽譜があります。鶴田流では4線譜に独特な記号で弾法を書き、歌詞には節の名前が書いてあります 。お精古は先生が楽譜を書くところから始まります。

琵琶の歌詞集を見ながら、歌詞と弾法を書いていきますが、生徒により、弾くことが得意な人には難しい弾法を、そうでない人には優しい弾法をと、その場で考えて書いていきます。ですから同じ曲でも人によって少しずつ違っていました。歌には楽譜はなく節の名前が書いてあるだけなので、先生が歌ってそれをまねるのですが、少しぐらい違っても、その節の範囲内であれば、あまりうるさく言うことはありませんでした。それらの事から古典曲での自由度がだんだんと判るようになっていきました。

先生はよく「琵琶らしい音、琵琶でしか出せない音を出すように」と言われていましたが、晩年になっても、琵琶にしか出せない音を探究していました。その思いを受け継いで、弦楽器としての琵琶、そして琵琶歌をより豊かなものにするために、これからも努力したいと思います。

 

(文・岩佐鶴丈)